先日、とある有名映画のジャパンプレミア(レッドカーペットイベント)で起きた出来事が、SNS上で炎上していました。
内容を見ると、一般客とインフルエンサーの扱いや配置に差があったことが原因のよう。
まず前提として、自分はその現場にはいませんでした。
なので実際の出来事の詳細は分かりません。
ここで書くのは、「その場で何があったか」という話ではなく、こうした出来事がどう取り上げられ、どう拡散されていくのかについて感じたことです。
今回の騒動を見て最初に思ったのは、そもそも一般客とインフルエンサーは違っていて当然なんじゃないか、ということでした。
拡散された内容には、「インフルエンサー=うざい」「特別扱いされていて不快」といった声が目立っていたけれど、仮に問題があったとすれば、それはそう感じさせてしまうような環境をつくった企画側の設計ミスだと思います。
インフルエンサーという存在は、現代になって生まれた比較的新しい立ち位置の人たち。
正直、自分自身も明確な定義が分かっているわけではなく、「ジャンルごとに一定の影響力を持っている人」くらいのふんわりした認識で捉えていました。
明確な線引きがないからこそ、ある人にとっては有名でも、別の人には「誰?」となる。
その曖昧さが、一般の中に溶け込んだときに違和感のもとになることもあるのかなと思います。
今回のような場に呼ばれている時点で、そのインフルエンサーたちは少なくとも映画やエンタメに関して日々努力している人たちのはず。
インフルエンサーが職業なのかどうか、そのあたりもまだ世間的には曖昧だけど、それでも「影響力がある」と認められているからこそ、呼ばれているのだと思います。
もちろん、みんながみんな大きな収入を得ているわけではないのかもしれない。
でも、少なくとも努力して、自分のスタイルで誰かに届く発信を続けている人たちです。
そうでなければ、そもそも「影響力」なんて持てない。
だから僕は、一般客とは扱いが違っていてもいいと思うし、それを特別扱いとして否定するのは少し違う気がしました。
もし自分がその立場を望むなら、自分も同じように努力して、その場所を目指せばいい。
ただそれだけの話。
だから今回、「インフルエンサー=悪」のような形で拡散されてしまうことには、違和感を覚えました。
同時に、現代の情報拡散のスピードと偏りの怖さについても、改めて感じさせられました。
ひとつの印象が拡散されると、それがあたかも事実であるかのように一人歩きしてしまう。
物事には常にいろんな面があるのに、一方的に裁かれる空気ができてしまう。
それはちょっと怖いこと。
特に最近は、「事実」ではなく「現象」が認知される場面が増えたように思う。
実際、今回の件も自分は炎上というかたちで知り、それをもとにこうして文章を書いている。
そう考えると、自分も情報の流れの中にいる一人なんだと感じるし、
だからこそ、常に俯瞰的に見る視点を持ちたいと思います。
とはいえ、こうして「そもそもインフルエンサーってなんだろう?」と改めて考えるきっかけになること自体は、悪いことではないとも思います。
自分なりにこの件を要約するなら、
映画の配給会社がインフルエンサーを特別扱いにして映画を広めようとした、
と、見る人にとってはそう映ってしまったこと、
そのことが結果的に炎上というかたちになったということなんじゃないかと。
配給会社にも事情があるだろうし、インフルエンサーもそれぞれの思いがある。
だけど、もしそれが誤解や反発として広まるのであれば、やり方の設計を見直す必要はあったかもしれません。
映画が悪いわけでも、参加したインフルエンサーが悪いわけでもない。
もっと言えば、配給会社自体が悪いのではなく、「やり方のミス」があったということ。
それが今回の一件における本質なのかなと思いました。
SNS時代の今、情報や印象の扱いはとても難しくて、同時にとても繊細なものです。
逆に、それを上手く使って知名度を上げる手法もある。
でも最終的には、発信する側も、受け取る側も、「自分のモラル」を持つことが一番大切なのではないか、
と僕自身は思います。
今回のことに触れて、改めて「信頼されること」を一番に考えたいと感じました。
その上で、より深く「共感」してもらえるように。
正直、数字に関しては自分は全然足りてません。
それでも、その順番だけは今後も変えたくない。
そんな風に思いました。